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被害者の特権
 反省、説明、謝罪、、

 すべて被害者特権。

 テレビなどで連日、連呼される特権である。

 反省し、十分納得のゆく説明をし、謝罪する。これらは当然のことであり、当然の要求であると、、、

 理屈としては、確かに正しい。

 しかし、

 あまりにも下品ではないか?

 被害者自身が、これらを当然のように口にするのは当然なことなのだろうか。

 聞いているだけで恐ろしくなる。とても脅迫的な文言、物言いばかりである。



 一方、死刑判決を受けてなお、罪を認めようとしない人間がいる。

 そういった人間の心理とは、いかなるものか。

 おそらく、

 常に、終始一貫、被害者意識を持っているのではないか。

 いつも自分は誰かに貶められ、足をひっぱられ、頭を押さえつけられている被害者なのだ、という意識を常に持ち続けているのではないか。

 そうした人間は、いつも加害者を探している。ひとりでも傍に人間がいれば、その人間を加害者にしようとする。

 国家権力も社会の仕組みも、なにもかも、自分に都合の悪い存在は加害者である。

 傍から誰もいなくならない限り、自分を省みることは絶対にない。なぜなら、そうやって人の中で過ごしてきたのだから、今後一切、人と関わる必要がなくなるという場面になってしか、それまで当然としてきた自分の生き方を変えるきっかけが巡って来ないからである。

 汚い人間は、いつまでも汚く、その絶対的とも言える特権を手放そうとしない。自分が一番の被害者であれば責められるいわれはない訳で、最悪に追い詰められても、誰一人理解者の得られない自分という被害者を生み出すのみである。



 そうした人間が生まれるのは、なぜか?

 加害者にさえならなければいいのだから、と、いきまくように当然の要求を口にする人間達のせいではないか。

 そうした人間達の物言いを耳にして、刷り込まれるのは「加害者の立場に立たされたらたまらない」ということだけではないだろうか。

 加害者になるようなことをしてはいけない、という話とは別。いわれがあろうとなかろうと、疑われること、加害者の立場に「立たされたら」たまらない、何をされるかわからない、どこまで追求されるかわからないという恐れ。被害者達の当然の要求は、そうした恐れを煽っているだけではないだろうか。

 被害者の特権を当然のように振りかざす人間の決定的落ち度は、

 聞かされる側の身になっていない、ということである。

 言う側は平気でも、聞かされる側にとって閉口してしまうような物言いは、いくら理屈として当然に正しくても、どこかにひずみがあるものではないか。



 聞かされる側のことを考える、というのはキリのない話になる。どんなによい物言いをしても、どこかで誰かが傷ついている可能性はある。

 しかし、あまりに安易に、まるでキャッチフレーズのように使う文言に、一体どれだけの配慮があるのだろう。過ちを犯したのだから当然のこと、自分は被害者なのだから当然の要求、あくまで加害者のみに向けての物言いなのだからそれ以外の人間が気にするようなことではない、、理屈としては至極まっとう。であるが、しかし、

 被害者は、自分のことだけを考えていても構わないのだろうか。

 すでに、その振る舞いが、多くの人たちを絶句させているとしても?

 新たなひずみを生むきっかけになっているとしても?

 当然のことを当然のことだからと口にするのは下品ではないのか。

 下品とは一方的な早急さであり、煽りであり、すべてを相手に投げてしまうことではないか。

 被害者だからといって、そこまでの特権はないだろう。
| 邪悪性 | 23:16 | comments(11) | trackbacks(98) |
釘さし魔
 クレーマーのようなもの。

 まず相手を釘付けにする。話はそれから。

 相手が感じている、悪気や責任を掴んだら離さない。

 その1点だけで、それ以降の自分の振る舞いをすべて肯定化してしまう。

 キ○ガイである。

 いくつも用意していて、あれこれと矢継ぎ早に指摘するタイプもいる。

 自分が何を言っても正しく感じられるのは当たり前である。相手は「間違っている人間」なのだから、そうでない自分は正義になれる。キ○ガイのカンチガイである。

 相手が間違っているからといって、自分が正しいとは限らないことが分からないのだ。見えなくなってしまうのかも知れないが、それこそキ○ガイである。

 そもそも相手は「間違いを犯した人間」なのであって「間違っている人間」なのではない。理屈でなくそれがわかっているのなら、キ○ガイじみた振る舞いをするはずがない。そうした人間は気が済むまで癇癪を起こした後から、自分は相手を間違っている人間などとは思っていない、間違ったことをしたからそのことを指摘しただけなのだ、と考える。後付の詭弁でしかない。そんな詭弁は、理屈としては通用しても、人間に対しては通じない。バレていないと思っているのは本人だけである。その程度の詭弁はバカでも気付く。

 理屈はあくまで理屈でしかなく、正しく「紡ぐ」ことなら誰にでも出来る。

 ましてや相手の間違いや失敗にかこつけてなら、正義を踏み外すことなどあり得ない。後は、正しい理屈を気が済むまで並べればよいだけである。

 仮に、理屈が破綻していたとしても、釘刺した点の立ち戻ればよいだけである。自覚や責任などのことを用い、相手にさらに深く釘刺せばよいだけである。これで自分の正義だけは貫ける。

 このことは特に深く考える必要はない。むしろ考えれば考えるほど、貴方自身もいつの間にか同じ人間になってしまうだろう。絶対的な常識などありもしないのに、あたかもそれがあるかのように見え、いつの間にか自分だけの正義がありもしない常識と摩り替わり、貴方自身の心に巣食うようになるだろう。

 追い過ぎれば必ず、同じクレーマーになる。釘刺すことは人を呪うのと変わらない。狂気の沙汰である。
| 邪悪性 | 12:07 | comments(1) | trackbacks(0) |
親になろうとすること
 親になろうとするなんて、ロクなものじゃない。

 親なんてものは、この世の存在しない。

 ただの代名詞として存在するだけ。

 親になろう、とする段階ですでにその人は親になる資格がない。

 そもそも、「なる」ものではないのだから。

 親という代名詞は、体裁のよい支配者を意味しているにすぎない。

 親だからといって、子供に親身なのかと言えば、必ずしもそうではない。

 支配を当然とするのなら、逆に言えば、子供は支配されるのが当然ということになる。

 支配者は往々にして、非支配者が支配下にあることで安心を得る。

 ただの監視役になることも、ままあることである。

 親としての自分に自信が持てなければ持てないほど、子供の反応から安心を得ようとやっきになる。場合によっては、子供の言いなりにすらなる。親の役割を果たす、ということに、自身の存在の肯定化を頼り切っているのなら、必然的にそうなるだろう。

 支配者として体面を保つのに最も安易な方法は、チェックし続けることである。

 チェックして、指摘して、理由を言わせ、改善を促す。ただの監視役であり、親という立場を絶対的な後ろ盾とする傲慢な行為である。

 親とは、家庭内における親の立場の人間を指すだけではない。上司や先輩、あらゆる場面で親になろうとするものは存在する。

 親とはなるものではない。

 ふさわしければ、そう見られるし、ふさわしくなければ、実の子供にもそっぽを向かれるだけの存在である。

 親という代名詞を否定するのではない。

 なにものとも定義付けらない親という体裁のよさを盾に、支配的な立場に立つのを「当然」とするような、安易な発想が危険なのである。

 親というのは、認められて初めて成り立つものでしかない。
| 邪悪性 | 00:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
抗議するタイミングを窺っている
 抗議するタイミングをうかがっている人間。

 それを抑えているのだ、という抗議的姿勢。

 そばにいる人間にさえ、その抗議の矛先を向けていなければ、その態度を嫌悪する人間がそばにいてもおかまいなしな神経。

 悪性の自意識過剰人間。

 悪性の自意識過剰人間は、決して相手を見ない。一瞥すらしようとせず、自分の頭の中にあることだけを実行しようとする。

 そのせいで、邪魔者扱いされているのでは?と感じる人間や、なんだこいつ?と嫌悪感を持つ人間を周囲に生み出す。自分から敵をせっせと作っている。

 初めから抗議的な姿勢だから、敵にさせられた人間はますます嫌悪感を強める。そうして実際に敵にさせられる。悪性の自意識過剰人間から見れば、自分の頭の中で描いている通りの現実になる。そうして抗議的な姿勢を続けてゆく。その態度の必要性を自分で作り、必要性があることでその態度の肯定化を図っている。

 本当は誰とでも仲良く接したいのに、などと考えている。それなのにそう出来ないのは、、、本人曰く、決して自分のせいではない。

 気分次第で友好的に気をひらく。それが受け入れられなければまた、抗議の殻にこもる。悪性の自意識過剰。キタナイ、キレイゴト人間の正体。

 そばにいる人間に対して矛先を向けているのではない、という自分の頭の中だけでの納得で、悪気を感じずに済ませている。背負っているように見えるのだが、それは、そうした姿勢でいるのには何か深い訳があるのでは?と思わせるための素振りにすぎない。実際はそうして他人を都合よく、選り分けようとしている。相手に先に嫌悪感を抱かせ、自分からは何もしなくても相手が自ら遠ざかってゆくように仕向けている。

 たいがいの人は嫌悪感など抱きたくない。抱きたくないことを抱いてしまうせいで葛藤を起こしてしまう。悪性の自意識過剰人間は、その葛藤を整理させることなく、相手の気を断ち切るような態度をとる。自分が与えた葛藤なのに、与えられたかのごとく振舞ってはばからない。

 先入観を持つな、と抗議的態度を取るのだが、それはそもそも自分が与えている印象、相手を無下にする態度のせいである。

 目の前に人がいてもおかまいなしに自分の仕事だけをしようとしている人間を、誰が快く思うだろうか。それがもともとの性格によるものなのか、それとも他人を気にしたくないがために自らの意思で取っている態度なのか、それくらいは誰でも一目でわかるもの。

 キタナイ、ウソツキでしかない。

 自意識過剰さを決してプラスに転換しようとはしないのも特徴である。

 自意識過剰は葛藤を生みやすい。葛藤をどう転換するか、笑えるような話に転換するかどうするか。一切の葛藤を拒む人間は、そうしたプラスへの転換の発想が乏しくなる。葛藤自体を嫌うから、転換する能力が著しく低い。それは現実主義者という訳ではなく、自己逃避の結果でしかない。驚くほど底が浅く、スカスカした話(聞いている方がポカーンとするようなキレイゴト)しか出来ない人間になる。

 美人はなぜか、こうした悪性の人間にひっかかりやすい。女からすれば、自分にさえ矛先が向けられなければ、深い何かを背負っているような人間に見えるのだろう。セックスなんかに気を取られない、もっと深い何かを知っている人間。

 そこに身勝手な女の理想を重ねることで、ただの悪性人間が理想の人になる。

 誤解されやすい相手を理解し包容する母性を満たしてくれる。

 抗議の姿勢は、本当は誰とでも友好的に接したい気持ちの裏返しなのだと、お互いに理解しあえる相手。

 自分の頭の中にあることを脇目もふらず実行しようする姿勢を、迷いのない一貫した態度と解釈することで感じられる頼りがい。

 葛藤を極力嫌う女にはうってつけの相手である。

 実際には底の浅い、抗議のタイミングを計っているだけの人間である。悪者を作ることで反射的に自分をよく見せようとする人間。それだけのこと。

 そうした人間のそばにいること、最後の一人になることは必然的に不幸になることを意味している。

 自己葛藤を極力嫌うのだから、はけ口は、他人への抗議かセックスしかない。キレイゴトもすべて他人への抗議を含んでいる。
| 邪悪性 | 03:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
人の間違いに寄生する生き物
 人が話している内容より、端々に目を光らせている。

 間違いを見つけると、口出しをする。

 というか、間違いを確認してからしか口を開かない。

 だから本人は間違いようがない。(他人の間違いを話の題材にしているのだから)

 訂正を促すような、優しい言い方をするかも知れない。

 部分的な間違いであるのに、話すべてを、理解できないものと片付けるかも知れない。

 他の人にわかりにくいのでは、と心配する素振りを見せるかも知れない。

 ただ単に、人の間違い、些細な躓きに反応しているだけ。

 話の仕方は常に、相槌を打たせよう、同意させようと疑問系。いちいち相手を自分の話に同調させようとばかりする。

 自分への同調ばかりに気を揉んでいるから、キモチ悪い。

 キモチ悪いから怪訝な顔をされているのに、部分部分の正しさへの同調を確かめることで、自分への正当性を確かなものと感じ、あくまで部分部分でしかないのに、自分の言っていることは全体的に正しいのだと、相手を置き去りにご満悦する。

 これ以上、卑屈な生き物はいない。

 自分のぬけた、表情のない仮面を付けた生き物。

 うじ虫にも劣る。

 知識や経験を自己保身にしか使わない生き物は、この世に必要だろうか?
| 邪悪性 | 00:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
正しいことは誰でも言える
 自分の言うことが間違っているかどうかばかり気にしている。

 自分の言っていることが間違っているかどうか、を人に言わようとする。

 間違ったことを言う度胸がないだけ。

 自己保身のみのガキ。

 同じような人間とのコミュニケーションは欠かさず、保身の組織作りに余念がない。

 正しいことは誰でも言える。

 間違ったことを言う度胸がないだけ。
| 邪悪性 | 00:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
覆いかぶさる依存者
 本当はぶらさがっているのに。

 何をカンチガイしているのか、一段上に立っている、と思い込んでいる。

 その思い込みを正当化するために、

 反発や抵抗を感じる相手を探そうとするし、

 わざわざ煽ろうとまでする。

 自分の虚栄なのに、他人のプライドの問題にすり替える。

 プライドだけは高い、だから現実とのギャップに苛立つのだ、、などと、我が身を忘れて指摘する。わかった気になる。

 気にする方が悪いのだ、気にしなければいいだけじゃないか、などとタカをくくって、他人を陰鬱にさせるのはこのタイプ。

 そうした影響を与えることでしか自分の存在を感じられない寂しい人間。

 本当はただしがみつき、ぶらさがっているだけである。

 周りが帳尻を合わせてくれているから、いられるだけ。

 そのことを感じると、なぜか悪気を感じるらしく、そう感じさせられることに屈辱?を感じ、極端に受け入れを拒む、不幸な性質の人間。

 自尊心だけが高く、自分の影とも知らないで、影を指差し罵倒するような哀れな人間。実体の存在しない、誰かにとりつきたがっている幽霊と言えるかも知れない。
| 邪悪性 | 23:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
義務意識
 他人への義務意識。「〜しなくちゃダメでしょう」

 他人への責任感。「〜しなくちゃダメでしょう」

 仕事やルールにかこつけた自己満足。「〜しなくちゃダメでしょう」

 かこつけた本人は当然こなせている。出来ているからこそ他人に言える、と思っている。もしくは、言わなければいけないこと、と意気に感じている、、

 最も悪質なイジメとは、当人の生理的満足のための発情でしかないのに「かこつける」こと。仕事、ルール、マナー・礼儀。自分が守れている世間一般的?な「義務」にかこつけて、相手にプレッシャーをかけること。

 イジメとは、実際はイジメる側が劣位なものである。にもかかわらず優位性を感じられる人間、根本的に物事を取り違えている人間がおこすものである。

 同時に、プレッシャーに負けまいと我を張りすぎることで、取り違えの優位性を真に受け、自らを劣位な立場に追いやってしまうことにも、イジメの原因の一端はある。

 プレッシャーに弱い、プライドばかりが高い、などという煽り。そうしたコンプレックスを自分に植えつけてしまうことは危険である。

 義務意識は人を焦らせる。

 自分が焦っているだけなのに、かこつけることで、あたかも他人の問題かのようにすり替えることが出来てしまう。「〜しなくちゃダメでしょう」

 要するに、不安の発露、感情的・生理的な欲求不満の暴発でしかない。

 押し付けられる義務意識。昔、武士道を軍人が捻じ曲げ「それでもお前は帝国軍人か」と言い出したように、、

 先回りする思想。どんな小さな盛り上がりでも、その頂点に誰よりも先に旗をたてたものがお山の大将になれる、、なりたがる。

 閉塞をもたらす義務意識からの脱却。脱却するためには、そのゲームの仕切り役、自らがルールになれば義務を押し付ける側になれるため、押し付けられる側からは脱却出来る。

 すり替えの義務意識なのである。

 なぜ要領を掴ませないのか?

 渋滞で目の前に視界を塞ぐ大きなトラックがいるようなもの。どこまで続いているのか、なぜ渋滞しているのかわからない。キリが見えない状態。

 あれこれと言いたがる人。

 あとどのくらいなのか、まちまちの情報。これくらい当たり前、普通のことだと言いたがる人。

 イライラした素振りを見せれば。

 そんなことではやってゆけない、などと言い始めたり。

 前を向いているのは、ひとりなのである。

 あれこれの人たちは、慣れきっているのか、ヒマを持て余しているのか、渋滞に反応している人間を観察しているだけなのである。

 〜でなければいけない、という義務意識。

 かこつけて、自分がぬける。ただ相手を観察するだけの目つきになり、寛容さを見せる程度が自分なりになにかをした精一杯のことだとカンチガイする。

 スタンスを直さない限り、寛容さなど自己弁護に過ぎない。

 自分が焦り、義務意識に苛まれ、出口を見つけたいと思っていること、気付けない限り、本質的にどうにも変われない。
| 邪悪性 | 23:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
自由が増えたこと
 自由が増えることによる弊害。それは、当たり前に居る、ことが出来なくなること。

 そこに居ること自体に理由が必要になること。

 自由なのだから、

 自分の意思で何処へでも行けばいい。そこに居なくてもいい。なのになぜ、そこに居るのか。誰も居てくれとは言っていない。

 自由が増えることで、気にする方が悪い、という風潮も強くなる。

 なぜか?

 居ること自体に理由が必要ということになれば、なぜ居るのか、そこに居ていいのか悪いのか、考えなければいけなくなる。

 誰も実際には口にしない。気にする人間とは、そこに居てはいけないのではないか、という劣等意識に苛まれおり、実際には誰も「居てはいけない」と言ってもいないのに、自身の中で葛藤を繰り返しているタイプ。実際に言われていないのだから、なぜ居てはいけないのか、と反問も出来ない。

 しかし、必ずしも気にする側の考え方の問題ではなく、気にする方が悪い=気が弱いなどのくだらない風潮に煽られて、気を他人に押し付けようとする虚勢人間が、気にさせている場合も少なくないはず。

 気の引き方が卑屈でキタナイ虚勢人間。ヤンキーでもオタクでも関係ない。臆病であればあるほど、他人に先に臆病さを感じさせようとするもの。

 自己主張や自己責任、やる気などの低俗な根性論が垂れ流されている世の中。義務意識だけを過剰にさせ、お互いを傷つけ苛ませるよう仕向けられている。

 お互いを傷つけ苛ませるよう仕向けることに、どんな意味があるのか。

 勝ち組、得た者にとって都合のよい「嫉妬」の論理を浸透させ、一部の人間にとって住みやすい世の中を築くためである。

 自由が何を生み出したのか。

 社会(組織)としての最小単位である家庭内における、お山の大将。それぞれ小さなコミュニティーにおけるインチキ教祖。

 妥当な指摘にさえも「嫉妬」として取り合わない密室の狂祖。

 自由を制限すべきだ、と言いたいのではない。お互いに傷つけあうことは止めよう、と説得力のない情を押し付けるつもりもない。

 理由が必要なら、自分で探せ。なくても構わないものだと思うなら、すんなりそれだけでよく、気を大きくして他人に「なんで?」という視線を向けるのは止めろ。何がいけないのだ、と自分で消化しきれない葛藤を、わざわざ背を向けて他人に押し付けようとするな。

 自由を履き違えている人間は、煽ったもの勝ちだと考えている。煽られる方がバカなのだ、とわざわざ煽られている人間を見つけては、ちょっかいレベルの口出しをする。

 なにが悪いんですか?どうして?なんで? 恥知らずという意味のバカ。

 煽られやすさの裏返しで、他人で試して、自分で負うべき葛藤を解消しようとしているだけ。

 自分の目でモノを見られないような人間に、自由は与えられるべきではない。
| 邪悪性 | 03:38 | comments(0) | trackbacks(7) |
カンチガイしている人間
 多くを望んでいないから、といって善良ではない。

 カンチガイしている人間は、多くを望んではいないのだから、と自分を正当化している。

 それは単に、多くを望む人間を悪者扱いしているだけ。多い少ないで善悪は量れない。ひとりを殺しても、100人を殺しても、人殺しは人殺し。

 望みが少ない、小さいからといって、控え目な訳でもない。自身の満足を得るための多少なのであって、ハムスターは少量のエサで満足できるが、象はその何倍ものエサでなければ満足できない、というだけのこと。少なかろうが多かろうが、満足を得たいという本質において同じである。

 カンチガイしている人間は、少量でありさえすれば欲張りではなく、欲張りでないのだから自分は善良なのだ、程度のバカバカしい他人との比較に満足を得ている。

 落ち着いている訳でも、忍耐強い訳でも、優しい訳でも、迷いのない訳でもなんでもない。ただの疑心転嫁。多くを望むということに対して純粋な意味ではなく、なぜなのか?と、懐疑的な意識を向けたり臭わせたり、そんな意識は毛頭ないかのように振舞ったりして自己満足している。

 懐疑的な意識をひとに向けることでの満足とは、懐疑心を自身で起こさなくても済む、心に波風を立てずに済むという平静の満足。

 もし、望むことが一切なければ、誰でも平静で居続けられるだろう。難しいことではない。頭の神経を2、3本切ってしまえば、誰でも簡単にそうなれる程度のことではないか。

 カンチガイの恐ろしさは、他人に懐疑心を起こさせているのに、多い少ないの理屈だけで、自分を正当化して恥ずかしげもなくいられるところ。

 そんな問題ではないのに、身勝手にすり替えたまま平気でいる。または、むしろ被害者ぶっている。

 物事は善悪の2極的な要素だけで量れる訳はなく、多少という程度の差によってその良し悪しが大きく変わってくるのは事実。だが、それは必ずしも、少ないからといって善であり、多いからといって悪である、という話ではない。

 少ないから良い、多くを望んでいないのになぜ?という思い上がり、ハムスター程度の脳みそしかない偽善者のカンチガイである。

 多くのものを望ませようという風潮が世の中にはあるかも知れない。ゆえに、こうしたカンチガイ人間は意外に多いかも知れない。少量なら良いと、ただ搾取のみを繰り返す人間。実体はなんなのか。本質を取り違えておいて、多いも少ないもクソもない。
| 邪悪性 | 03:39 | comments(0) | trackbacks(5) |
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